朝から緑内障について調べてしまう。
失明してしまう可能性はあるが、必ず失明するわけではないことを、改めて知る。
そして、進行を遅らせる対症療法しかなく、根本的な治療法がないことを知る。
必ず失明するわけではないのに、失明する可能性があることに、頭も心もとらわれてしまう。
緑内障は種類がいくつかあることと、様々な検査方法・検査機械があることを知る。
受診した眼科の先生は、種類について説明してくれなかったと思い返し不信感を持ったり、
受診した眼科は、どうやら最新の検査機械で、いくつもの検査方法で検査をしてくれたようだと、
幸運に感謝したりする。
早期発見出来たことに対して、
受診のきっかけになった母や会社の先輩に感謝したり、
知らないほうが幸せだったかも、と恨んだりする。
母に心配かけて申し訳ないという気持ちと、
早期発見できたことへの感謝が入り混じる。
現時点では、緑内障は「不治の病」であるから、
母を含む家族に、一生、心配をかけるのは非常に申し訳ないと思う。
「視神経が死ぬ」という特性から、iPS細胞で治療できるのでは?と思い、検索する。
研究が進んでいることに喜び、
治療が実用化されること、
しかも、自分みたいな自覚症状が無い患者が保険適用で治療を受けることは、
まだまだ先になりそうだと、
落ち込んだりする。
失明したらと考えると、不安が尽きない。
生活はどうなるのだろうか。
お金は稼げるのか。
今の仕事は続けられるのか。
今の貯蓄でお金は足りるのか。
お金の管理はできるのか。
今の仕事は視覚への依存度が高い。
「聞いて話す仕事」というよりは、
「読んで書く仕事」だ。
社会人になりたてで、
仕事の仕方がよく分からなかったころ、、
評論家であり、翻訳家・サラリーマンとしての顔を持つ、
山形浩生さんの著作を読んで、
蒙を啓かれたことがあった。
曰く、「サラリーマンは書類を書くために仕事をしている」(大意です)。
物を売るにしても、買うにしても、
過程にかかわらず、
最終的には、注文書、注文請書、契約書、請求書、領収書等の
書類に落とし込むことが必要になる。
社内決裁を得るにしても、
会議で説明したとて、
最終的には、稟議書等の決裁文書に落とし込むことが必要になる。
自分の期間評価も、
手始めは、目標管理の自己評価という形で、
自ら書類に落とし込むことが必要になる会社も多いだろう。
そう考えると、
「サラリーマンは書類を書くために仕事をしている」ことは間違いなく、
契約書であれ、稟議書であれ、
最終的に作成する書類から逆算して仕事をすればいいと考えると、
非常に仕事の組み立てがシンプルになった。
この考え方は、いろいろ発展させることができる。
いちサラリーマンではなく、
企業を主体として考えると、
最終的には、
決算書という書類に落とし込むために、
事業活動をしていることが理解できる。
脱線してしまうけど、
始皇帝が文書行政をはじめたこと、
欧米の行政文書の取り扱い、
日本の森友学園問題を見ると、
最終的に書類へ落とし込むことの重要性が理解できる。
そんな風に、「読んで書く」ことを重視して仕事をしてきたから、
失明をしたら、
自分の仕事のうち、
評価される部分・お金をいただける部分の大半が失われるのではないかと、
絶望的な気持ちになる。
子供の頃からの趣味である読書の楽しみも失うのかと思うと、
これも絶望的な気持ちになる。
この日はなかなか寝付けず、
しかも就寝後、2時間で起きてしまった。
翌日は、恋人と会う。
病気を告げなければいけない。