今日、自分が緑内障だとわかった。
先生から告げられた時に頭をよぎったのは、「まさか」「やっぱり」「逃げ切れなかった」という3つの言葉だった。
受診のきっかけは、母から緑内障には注意するように言われたことと、会社の先輩が緑内障を発症したことを知ったからだった。
緑内障の自覚症状(視野の欠損)は無かったが、近視が強く、そのためか目が疲れやすかった。
一時期、長時間残業が続いていたことも、健康には良くないなと思っていた。
健康診断の結果は、「A:異常所見無し」だったが、眼の検査は視力検査のみだった。
時期は少し遡る。
長時間残業が続いていたのは、コロナ前だった。
2019年8月から2部門兼務になり、約45時間残業になっていた。
2020年3月までの3か月間は、約80時間残業だった。
労働組合の役員でもあったので、勤務時間外に労働組合としての仕事もしなければならなかった。
深夜2時に寝て、翌朝6時に起きて出社することも、度々あった。
自分が20代の頃(電通の高橋まつりさんの事件の前で、世間的にも残業に寛容な頃)は、もっと無茶な残業もしていたが、37歳という年齢からすれば、健康を考えると、そろそろこの状況を脱しなければと思っていた。
同僚の先輩女性が、「○○さんは、ある意味、命を削って働いているようなものだよ」と注意してくれたこともあった。
ただし、コロナ以降、勤務先で在宅勤務が導入されてからは、ずいぶんと身体的な負荷は減っていた。
通勤時間はないため、睡眠時間をある程度確保できた。
業務範囲そのものは変わらないが、出社していれば対応しなければならなかった「ちょっと時間良い?」というような、(自分からすれば)無駄な問い合わせが随分と減ったため、勤務時間もある程度、減らすことができていた。
2部門兼務と、組合役員であることは変わりなかったが、いずれは兼務を解消してくれるという話だったし、組合役員には任期があるため、それまでは責任感を持ってやり遂げよう、と思っていた。
健康を意識する余裕も生まれ、過食に気を付け、夕食を終える時間を早め、入眠時間を早めた。
そのために、夕食後にお風呂に入る生活へ、生まれて初めて切り替えたりした。
周知のとおり、コロナの感染状況には波があった。
幸いにもという言葉は相応しくないかもしれないが、在宅勤務と出社勤務の併用状態は続いていた。
そして、2020年10月に兼務が一部解消され、2021年1月には完全に解消された。
また、2021年8月には、組合の任期を終えた。
自分としては、責任感を持ってやり遂げられた、と思っていた。
業務に関する資格試験・検定試験の受験勉強もしていたのだが、2021年11月に試験を終えた。
ようやく、人間らしい生活に戻れた気がした。
その前後に、冒頭に書いた、母の注意と、先輩の発症があった。
緑内障は、失明につながる病気ということは何となく知っていた。
2021年12月前半の仕事の山場を越えた後、緑内障検査の予約を眼科へ申し込んだ。
「自覚症状もないし、まだ大丈夫だろう」という気持ちと、体を酷使してきてしまった自覚が共にあった。
受診日当日、検査機械による精密検査の前に、先生の診察があった。
先生は、てきぱきしたベテランの女性医師という印象だった。
緑内障の自覚症状の有無について尋ねられ、無いと答えた。
緑内障の家族の既往歴について尋ねられ、無いと答えた。
先生は、「それなら大丈夫そうではあるけど、眼のリスク管理は良いことだね。最近は機械の精度も上がっているから、とりあえず調べましょう。」と言ってくれた。
その言葉に、少し安心した。
精密検査の前に、診察室の電気が消され、先生がペンライトで眼球の様子を診察してくれた。
「眼に傷はないね。」
この言葉でも安心した。
その後、遠くを見るように言われた。
先生は言った。
「緑内障だね。」
僕の様子を見て、先生は少し付け足した。
「軽い、緑内障だね。」
頭をよぎったのは、「まさか」「やっぱり」「逃げ切れなかった」という3つの言葉だった。
その中でも、「逃げ切れなかった」という気持ちが強かった。
「激務も責任感を持ってやり遂げたのに。」
「健康を意識した生活をはじめたのに。」
「もっと早く、体をいたわってあげていれば。」
そんなことを考えながら、精密検査が終わっていた。
その後の先生の問診は、動揺していて、うまく受け止められなかった。
「まだ重くない。」
「半年後に、経過観察のため、また精密検査をする。」
「眼を酷使しないように。」
という3点だけは、覚えていた。
その日の夜は、意外と普通に眠ることができた。
まだ、失明の可能性があるということを、真剣に捉えることができていなかったのかもしれない。